センスとは何か ——AI時代における「判断」の技術
私たちはいつから「センス=才能」だと思い込んできたのだろうか。
水野学『センスは知識からはじまる』(2014)は、約10年前の本だが、いま改めて読む価値のある一冊だ。とくに生成AIが誰でも扱えるようになった現在、この本の語る「センス=知識に裏打ちされた判断力」という視点は、より深い意味を持ちはじめているように思う。
小中学校での芸術教育(美術・音楽)を振り返ると、それが“学問”ではなく“感性”の領域に押し込められてきたと著者は指摘する。
主要5教科が“頭を使う学問”として教えられる一方で、美術や音楽は「楽しむもの」「得意な人がやればいいもの」として扱われてきた。評価もあいまいで、知識の蓄積よりも作品や演奏の“仕上がり”にばかり注目が集まる。その結果、「センスがあるかないか」がすべてを決めると誤解されやすい土壌ができあがっている。
プロローグに水野氏と学生とのこんなやりとりが紹介されている。
「私は誰もみたことも聞いたこともない、斬新な企画を作るつもりです。だから私の企画を今ある疑念に照らし合わせたとしても『〜っぽい分類』はできないと思います。」「頭で分類したり考えたりするんじゃなく、センスやひらめきがどう生まれるかを教えてください。」
彼らの様子を見て、「センス問題は根深いなあ」と改めて思いました。
斬新なアウトプットをするには、いまだかつて誰も考えなかったとんでもないことを、センスをもってひらめかなければいけない−これが頑固な大前提になっているようだと痛感したのです。
水野学『センスは知識からはじまる』プロローグより
実技重視、理論軽視
大学においてもその傾向は続き、座学の重要性は十分に共有されず、座学より実技が優先され、理論や歴史を深く学ぶことなく作品づくりへと急ぎがちになる。なぜこの形なのか、なぜこの色なのか、選択の根拠が言語化できないまま、実技に偏重している。
著者は、センスとは「優れた判断を繰り返し行うこと」によって育まれるものであり、その判断力は「正しい知識の蓄積」によってこそ支えられると述べている。
根拠がわからなければ、「なぜこのフォントなのか」「なぜこの配色なのか」といった判断の理由が説明できない。そうなると、結局は“売れているもの”“評価されているもの”、さらには”テンプレ”の表面を模倣するしかなくなる。形式だけをなぞって、それらしく整えることはできても、そこに自分の判断や意図は介在していない。
AIが“それっぽさ”を高速で生成できるようになった今こそ、なぜそれを選ぶのかという根拠を持つことが、表現における差異と主体性を生む鍵となる。センスとは、まさにその「選ぶ理由」を支える技術である。
AI時代のセンス
AIはたしかに、大量の情報をもとに、それらしく“整った”アウトプットを瞬時に生み出す。画像も、文章も、レイアウトも、一定の水準を満たしているように見える。だが、だからこそ問われるのは、「そこから何を選び、何を捨てるか」という人間側の判断力だ。
AIの登場によって、“判断する人間”としてのセンスがいっそう要求されているとも言える。情報や表現の生成そのものではなく、それをどう読み解き、どう活かすかに、創造性の軸が移りつつある。
水野氏の言う「センス」は、まさにこの判断力のことである。膨大な知識と経験を蓄積した上で、「今、どんな形がふさわしいか」「なぜその色か」を決定する。その選択の積み重ねが、結果として“センスがある”と評価される表現をつくり出す。
こうした視点を教育の現場に持ち込むには、美術や音楽を「知識に基づく判断を学ぶ教科」として再構築する必要がある。センスを“学べるもの”として扱うこと。そのためには、ただ描く、演奏するだけでなく、「なぜそうするのか」を言語化する訓練が欠かせない。
センスとは、天から与えられる才能ではなく、積み重ねによって獲得される“知的技術”だ。その視点に立ち戻ることで、芸術教育のあり方は大きく変わるはずである。
このような背景を見つめ直すとき、『センスは知識からはじまる』というメッセージは、単なるデザイン論にとどまらず、これからの「学び」や「創造」のあり方そのものに問いを投げかけているように思える。



